タイタニック号と20世紀初頭のアイルランド

タイタニック号と20世紀初頭のアイルランド

 

 

 

 

 

 

映画やテレビでタイタニック号のことは知っていましたが、最後の寄港地がアイルランドだったとは知りませんでした。'97年の映画をまた見たくなりました。

タイタニック号と20世紀初頭のアイルランド

アイルランド人の間で自虐的に半ば冗談として、「世界で最も有名なアイルランド製品はタイタニック号だ」と話すのを耳にすることがあります。ベルファストで建造され、その後の船の運命がそんな話にしてしまいましたが、船が完成した当時は逆に自慢話として使われても良かったようです。悲劇はアイルランドも巻き込むことになりました。

工業都市、ベルファスト
イギリスを拠点とするタイタニック号のオーナー、ホワイトスター・ライン社は、当時イギリスのライバル会社やドイツの船会社との大西洋航路のスピード競争に遅れをとっていました。そこでスピードよりも船の豪華さで勝負したのがこのタイタニック号でした。

ホワイトスター・ライン社の船を専門に造ったハーランド・アンド・ウルフ社は、現在の北アイルランドに当たる、ベルファストにありました。この造船所は船体だけではなく、エンジンから関連器具まで大半を社内で造り、当時最高の造船技術を誇っていました。18世紀からベルファストは工業都市として栄え、紡績産業、次いで造船業が栄えました。アイルランドで唯一、19世紀初めに産業革命の恩恵を受けたのがベルファストでした。それまで手工業であったリネン製品は機械化のおかげで生産量を増し、一大輸出品となり、ベルファストは興盛を極めます。一時期はダブリンをもしのぐ人口を抱え、現在でも北アイルランドでは最大の都市です。アイルランド島全体で考えれば、ダブリンに次いで2番目の大きさになります。そんな工業都市、ベルファストでタイタニック号は造られます。

3隻の姉妹船の建造
タイタニック号は、同型のオリンピック号、ブリタニック (ジャイガンティック) 号と共に、3隻の姉妹船の2番目として建造されました。まずオリンピック号の建造が開始され、時期をずらしてタイタニック号を起工します。特定の部分専門の造船作業員がオリンピック号の担当部分を造り、出来上がった時点で、流れ作業のように作業員は次にタイタニック号の同じ部分を造り始めるというように効率的に造られて行きました。計画では3隻の運行はそれぞれ、1911年、1912年、1913年、の春に開始されるとされていました。オリンピック号を造り、その修正点を反映させて造られた当時最高の豪華客船がタイタニック号だったのです。

3番目の船ブリタニック号は、第一次世界大戦が始まってしまったため、客船となることは無く、病院船として利用されましたが、1916年、エーゲ海で機雷に触れ沈没しました。オリンピック号はタイタニック号の悲劇の後も現役として、オールド・リライアブルというニックネームで1934年まで活躍しました。

タイタニック号の進水式とその後
1911年5月31日、タイタニック号の進水式が行われました。進水式には10万人もの見物人が、土手や造船所周囲の建物の屋根などに登るなどして集まり、翌日、新聞、Irish News and Belfast Morning News 紙は「アイルランド人の知力と勤勉の結晶」と誇らしげに書いたそうです。当時、最高の造船技術誇り、陸上にある高級ホテルよりも豪華な1等船室をもつタイタニック号が作られたことは、ベルファスト経済の勢いを物語っています。

第2次大戦後、造船業は日本や韓国に取って代わられ、ベルファストの造船業は衰退してゆきます。以前の面影は世界最大といわれるドライ・ドック(Dry Dock)や巨大クレーンで想像できるのみです。現在、ハーランド・アンド・ウルフ社は事業を造船以外にも広げ、橋などの公共事業も手掛けているようです。2003年にダブリンのハーペニーブリッジの改修をしたのはハーランド・アンド・ウルフ社でした。

 
Belfast

Ha'penny Bridge, Dublin

現在、タイタニック号が造られた場所は見ることは出来ませんが、ベルファストのシティーホールでは4月に、タイタニック号をテーマにしたフェスティバルが開催されているようです。また、ドックを中心にビジターセンターを作る一大プロジェクトの計画があるようです。

 

Titanic Memorial, Belfast


航路と悲劇

1912年、イングランドのサウサンプトン (サザンプトン ‐ Southampton) を4月10日の正午に出航したタイタニック号は、次にフランスのシェルブール (Cherbourg) に同日の午後6時半から9時まで停泊しました。

そして翌日4月11日11時半に最後の寄港地となるアイルランドのコーヴ ( Cobh ‐ 当時はクイーンズタウン) に到着、午後1時半まで停泊しました。そして目的地、ニューヨークを目指して出航しました。しかしコーヴを出航して3日半後、未曾有の海難事故に遭遇してしまったのです。乗客・乗組員2,207名のうち、生存者は705名。誰もが不沈と思っていた最高級豪華客船が処女航海で大惨事に見舞われたことは世界に衝撃を与えました。

 

最後の寄港地、コーヴ
タイタニック号の運命の航海を最後に見送ったのがカウンティー・コークにあるコーヴ(Cobh)です。かつてイギリスの統治下だった時代はクイーンズタウンと呼ばれ、数百万人のアイルランド人が希望を求めて北アメリカへと旅立っていった港です。

タイタニック号が到着する11日の朝、港の岸には噂の豪華客船を一目見ようと、コークからはるばる見物にやって来た人など、群衆が集まっていたそうです。コーヴの港はタイタニック号のような巨大な船には小さすぎたため、船は接岸せずに沖に停泊し、はしけ船で乗船客や郵便を運びました。ここでは123人の新たな乗船客があり、ほとんどがアイルランド人の男女だったそうです。停泊中、物売り船がアイリッシュ・レースやリネン、陶器や磁器などの売り込みをして、一部は船上での販売を許されました。

映画「タイタニック」の中のアイリッシュ
タイタニック号にはヨーロッパの様々な国からの移民がアメリカに新天地を求めて乗船していましたが、1997年の映画 「タイタニック」 では、アイリッシュの存在が強調されていました。主人公のジャックとローズが3等船室で踊るシーンがありますが、周りの移民たちが演奏しているのはアイリッシュ・ミュージックです。また、沈みゆく船の中で、3等船室の母親が子供に、ケルト神話の常若の国、ティル・ナ・ノーグの話を聞かせているシーンがあったりします。映画全体もエンヤを意識したサウンドが使われています。

現在知ることのできるタイタニック号での様子は、海難事故の後にアメリカ上院の調査委員会とイギリス商務省で行われた審問による、膨大な調査記録や新聞記事から得ています。映画などはこういったものを基にドラマを再構築していますが、3等船客の審問のための証人はほんのわずかで、今日、実際の3等船室の様子を知るのは困難なようです。映画の3等船室のダンスシーンは、ジェームス・キャメロン監督が大いに想像力を発揮し、楽しんだところだと思います。

映画「タイタニック」のファンには怒られそうですが、ここで少々興ざめなお話。映画の中で3等船室の乗客が音楽を奏でて楽しんでいますが、アイルランドのバウロン (bodhran) という打楽器がリズムを提供しています。実はこのバウロンが楽器として使われるようになったのは比較的新しいようです。バウロンは何百年前からアイルランドにありましたが、戦いの際や、祝いの席で景気付けに利用されていたようで、音楽を演奏する楽器として取り入れられたのは1960年代に入ってからだそうです。したがって映画の舞台となった1912年当時は、まだ演奏には使われていませんでした。全く間違っているとは言い切れませんが、やはり時代考証での見落としのように思います。

アイルランド移民
ニューヨークの、自由の女神のリバティー島 (Liberty Island) よりも湾を入ったところにエリス島(Ellis Island)があり、当時そこに移民が最初にアメリカに到着し、移民手続をする移民センターがありました。タイタニック号の3等船室から奇跡的に助かった移民たちは、カルパチア号に救助され、ニューヨークの港に入りましたが、特別な計らいでエリス島ではなく、移民官をカルパチア号に乗船させ、船上で手続を行ったそうです。生還した人たちはニューヨーク市民から温かく迎えられ、宿泊施設などが提供されました。

 

コーヴには昔の駅を利用して作られた博物館、コーヴ・ヘリテージ・センター(Cobh Heritage Centre)があります。昔、人々はこの駅に到着し、新天地を目指しタイタニック号に乗船していったのです。センターの外にはアニー・ムーアと幼い兄弟の銅像があります。彼女達はタイタニック号とは直接関係はなく、それ以前にアメリカに渡ったアイルランド人の姉弟です。アニー・ムーア(Annie Moore)は1892年にアメリカ、ニューヨークのエリス島に移民センターが開設された際に、最初に到着した移民です。アニーはこの時14歳でした。銅像は移民の歴史と、アイルランドとアメリカの関係を物語るシンボルとして作られました。エリス島にも同様の銅像があり、大西洋を挟んで、出発地と到着地とで対となっています。コーヴ・ヘリテージ・センターではタイタニック号関連の展示と共に、こうしたアイルランドの移民の歴史や、1915年にドイツのUボートによって撃沈されたルシタニア号関連の展示などがあります。

タイタニック号が最後にコーヴに寄航したのは偶然ではなく、当時、アメリカ大陸に多くの移民が新天地を求めて渡っていったアイルランドでは、他の多くの船のように地理的にも移民の数からも必然的なことだったのです。タイタニック号がコーヴの港を離れる際、3等船室のアイルランド人たちは、恐らく二度と故郷に戻ることはないだろうと、船尾に集まって故郷に別れを告げていたそうです。ほとんどの移民船は船内の環境も悪く辛い旅でした。そのような中でタイタニック号は、3等船室でさえも他の船に比べ何倍も快適だったようです。しかし、それがまさに運命の船旅になってしまったのでした。

ベルファストで造られ、コーヴを最後の寄港地としたタイタニック号を考えると、20世紀初頭のアイルランドの様子が浮かび上がって来るようです。

[2006年8月 Samon]

参考文献
不沈 タイタニック 悲劇までの全記録 ダニエル・アレン・バトラー著 大地 舜 訳 実業之日本社
タイタニックがわかる本 高島 健 著 成山堂書店
北アイルランド 「ケルト」 紀行 武部好伸 彩流社
アイルランドからアメリカへ 700万アイルランド人移民の物語 カービー・ミラー/ポール・ワーグナー 茂木健訳 東京創元社